ENDLESS PHANTOM 10

 

「くそっ!!」

 薄暗く狭い廊下に丸井の声が響く。
 ドンと横殴りした壁はびくともせず、殴った右手に鈍い痛みが走る。
 けれどそんなもの痛みのうちには入らなかった。

「ジャッカル…」

 彼に殴られた右頬は、確かな熱を持ちながらジンジンと殴られた事実を主張する。

「うつむくな」

 全員が全員、息切れしながらしゃがみ込んでいた中で、仁王はただ一人背筋をしゃんと伸ばして丸井を見据えた。
 そしてまだ続く廊下の先へと視線をずらし、自分に言い聞かせるかのように、けれど凛とした声で言った。

「前だけ見とけ。外にさえ出りゃ助けは呼べる。先だけを、見るんだ」

 わかってる。わかってるんだ。
 泣いてる暇なんてないし、感傷に浸ってる場合でもない。
 いつ自分がジャッカルのようになるかだって分からないし、何より生きて帰れる保障などどこにもない。

 立ち上がって、前だけを見て、そして歩き出さなければならない。
 たとえ、仲間が減って行こうとも。

 わかってる。わかってるんだ。頭では確かに、わかってる。

 丸井は左手の甲で右頬を軽く押さえ、そして目を閉じた。

(待ってろよジャッカル。…絶対、助けるからな)

 そうして言葉にしないと、自分すらも騙さないと、前に進めない気がした。
 ゆらりとぐらつく信念では駄目なのだ。鋼よりももっと固い意志を持たないと簡単にこの闇に呑まれるのだと本能が警告している。

「…うし、行く」

 まだ後ろ髪惹かれる思いはあるけれど、丸井がそうして前を見て立ち上がったら、仁王はいつもの食えない笑みではなく少しだけ優しげな笑みをその顔に浮かべた。

「急がんとな。正確な時間がここじゃわからないけぇ」
「あぁ。にしても、なんかこの辺り暑くねぇ?」

 余程敏感になっているのだろうか。
 先程から何かに気づくのは決まって自分が一番先と、丸井は気がついていた。
 それが何を意味するのかは分からない。けれど、神経を研ぎ澄ましているという点ではおそらく幸村や仁王の方が優れている。それを自覚しているからこその疑問だ。

 思えば普段気がつかないようなことまで、やけに気づいている気がする。
 教室の数から始まり、みんなには聞こえないノイズ、そして今の暑さ。

 他のメンバーの疲労が大きいのか、それとも。

「…ずいぶんとねっとりした空気だな…」

 苦虫を噛み潰すよりも渋い顔で幸村はあごを拭う。
 赤也に至ってはがっとネクタイを緩め、手で首周りを仰ぎ始めた。

 明らかに、周囲の温度が、湿度が上がっている。

「早くこのあたり抜けちゃいましょうよ」
「そうだな。湿度が高いってのは俺達の敵だしな」

 そういいながら赤也の髪をわしゃわしゃと掻き乱し、幸村は足取り軽く通路の奥へと向かう。
 待って下さいよ、といって小走りに幸村を追う赤也を真田はため息混じりに眺め、お前達も早く行くぞ、というために後ろを振り返ったそのときだった。

「ま、丸井…仁王…?」

 明らかに動揺している真田の声に驚いたのは、むしろ丸井たち自身だった。
 なにを驚いてんだ?
 言葉にこそしなかったが、顔全面で表して真田を見返す。

「お前達、足、が…」

 足?
 真田の指差す先を見ると。

「な、なんだよコレ?!」
「床が…!」

 まとわりつくようにねっとりしていたのは、何も空気だけじゃなかった。
 床全体が、丸井たちを飲み込もうとしている。

 はじめは足場が凹んでいるだけだったが、次第に足首が埋まり、抜け出そうともがけばもがくほどふくらはぎ、そして膝とどんどん埋まっていく。

「ッこれ、まじやばっ」
「冗談、キッツイぜよ…!」

 たった3M弱。真田と丸井たちの間の距離は僅かそれしかないのに、真田の足元には何の変化もない。
 上半身をねじって後ろを振り返る。柳と柳生の状況を確かめるために。

「…!」

 埋まって、いた。

 どういうことだ?アイツらが黒幕なんじゃなかったのか?
 だって、さっきジャッカルと分かれた部屋であいつらは…。

 考えれば考えるほど頭は混乱し、そして体は沈んでいく一方だ。

「丸井!」

 仁王が、隣で叫ぶ。

「真田のとこまで行けば足場は安定しちょる!前に、とりあえず進めっ…!」

 水の中を動くよりも動きづらい。
 足を踏み出しても踏み出しても一向に進んでる気はせず、結構進んだと思って前を見ても、まだあと1mはあるようだ。

 もし、もしあれが本物の柳と柳生だったら…。

 そう考えると体は勝手に動いてはいるが、意識が別のところにあるのだから力はなかなか入らない。
 仁王にだいぶ出遅れながらも前に歩みを進めると、とつぜん、首がぐっと苦しくなった。

「うっ!?」
「悪いな丸井、少し我慢しろっ!」

 シャツを力任せに引っ張られ、ぎゅと目をつぶると同時に肩に衝撃が走る。
 真田が丸井を引き上げたのだ。

「けほっごほっ!」
「大丈夫か丸井」
「さっ…真田!おま、肩壊したらどうしてくれんだよっ!」
「ぬ、すまん。だが埋まるよりはよかろう」
「先に、せめて、一言、言ってからにしろぃ…!!」

 こみ上げる咳を我慢しながらそう言えば、真田は心底ばつが悪そうに眉をしかめて丸井を見下ろす。図体はでかいくせに、真っ直ぐで純粋で心優しい。丸井は責めるに責められず、ようやく落ち着いた自分の呼吸に胸を撫で下ろすと膝に力を入れて立ち上がる。

 全く、お前の馬鹿力のおかげで助かったぜ。

 それは言葉として、音になったはずだった。
 自分の背後の光景すら忘れて、真田に感謝した、はずだった。

 しかし実際言葉として音になったのは丸井のそれではなく、鋭く尖った幸村のものだった。

「全員走れ!何か来るぞ!」

 耳を研ぎ澄ませば確かに聞こえてくる、何かの這う音。それに伴って聞こえるゴオォォという唸り声にも似た音。

 何かが来ていることは明白で。
 そしてそれが自分たちの見方ではないことも、これまでの経験から明白だった。

「だけど!」

 全員が切り替えて走り出したと同時に、抵抗をしたのは赤也。

「柳先輩と柳生先輩が!」
「ッ来い赤也!」

 先程の自分と同じ状態にはさせない。

 そうは思っても、気の利いた言葉なんて考える余裕すらなく、丸井は赤也の腕を力任せに引っ張るとそのまま力の限り握って走る。

「丸井先輩!」

 怒りさえ含んだ抵抗する声が、5人の足音に紛れて暗い空間に響いた。

 

[ update 07.11.14 ]

 

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 大好きだから認めたくて、認めたくなくて。
 (07.11.06)