状況は最悪だ。
出入り口はここへ降りてきた階段以外にはなく。そしてその階段すら、今はもう。
「…無事に、帰れますよね…?」
床に座り込んだままの赤也が、ぽつりと酷く頼りなく呟いた。
初めてかもしれない、こんなに赤也を幼く感じたのは。
丸井は思う。たしかに些細なことでのけんかはこれまでしてきたし、存分に子供らしさは見てきたのだけど。
まだまだ子供なのと、幼いのとでは違う。
(イッコ差、実感かも)
思考がそちらへ働けば、勿論赤也の呟きに対して答える事はできなくなる。
けれど答えなかったのは何も丸井だけではない。
仁王は壁に背を預け、腕を組みながら視線は足元に。幸村は赤也の隣に立ったまま、目を閉じて。それぞれが思案している。
余裕など。
周囲全てに気を遣う余裕など、もうないのだ。
それに中途半端な慰めの言葉なんて不安を掻き立てるだけ。
常に最悪のケースも考えなければならない。ここが、普通の世界ではない以上。
「真田たち遅いな」
その声は待ち合わせに真田たちが遅刻しているかのように穏やかだった。
明らかに場違いではある。あるが、しかし。今、この状況において幸村のその一声は、絶大な効力を発揮した。
場が和んだのだ。
緊張は一気に解け、殺気立ってさえいた仁王は口元に笑みを浮かべ、丸井は空腹を思い出し、赤也は廊下へ通じる扉に目をやる。
「ほーんと、何やってんすかね」
「足音とか物音が聞こえない以上、こちらはうかつに動かないほうがいいしな」
「まぁそのうち…」
戻ってくるだろ。
そう言おうとした言葉は最後まで紡がれる事はなく、突然聞こえた真田の声によってかき消された。
「今戻った」
「階段もなければ出入り口らしきものはないな」
「弦一郎とジャッカルは収穫なしか。俺と柳生は扉を見つけた」
来た。
表情にこそ出さないが、丸井も仁王も幸村も同時に、そしてさりげなく目配せした。
やはり、柳は黒。そして。
「扉?俺と真田が見たときはそんなもの…」
「あぁ、見落としたのでしょう。巧妙に隠されてましたから」
柳生も、黒だ。
「まぁまぁジャッカル。とりあえず動かんことには埒があかん。案内してくれるじゃろ?のう、柳生」
おそらく黒幕はその二人。ならば守りの姿勢はもう終わりだ。
攻めて、その鼻を明かしてやる。何の目的があって、こんなところに連れ込んだのか。
彼らが普段の彼らではない事は明白。
ここが現実の流れとは違う以上、油断する事は出来ない。どんな非現実的なことが起こるか予想だに出来ない。
けれど、何もせずに言いなりになるつもりはさらさらない。
「…呑まれたな…」
柳と柳生が見つけたという扉に向かう途中、幸村は最後尾についてぼそっと呟いた。
不思議ではないのだ。もともと学校という場所は、歴史上なんらかのいわくがついた場所に立つことが多い。だから七不思議というものも生まれるし、実際何かしらそういった負の空気はたまりやすい。
ましてや旧校舎などいつから建っていたのか分からないのだ。
現実的ではない。けれど、今自分のいる場所が現実なら、それもまた真実となり得る。
それに加えて柳と柳生の性格だ。
旧校舎など資料の宝庫なのだから、いつ足を運んでもおかしくない。
意識ごと、持っていかれたのだ。
「幸村くん?」
ふと、呼ばれた声に意識を前に戻すと、部員はすでに全員立ち止まり、怪訝な顔をして幸村を見ている。
「え?」
「ぼけっとしているな精市」
「あ、うん、ごめん」
少しだけ、頼りなさ気に口元に苦笑を浮かべる様は、まるで柳そのものだ。
いや実際は柳なのかもしれない。本当は、こんな状況じゃなければ、柳の言動に違和感すら覚えないのかもしれない。
だんだんと、自信がぐらつき始める。
(なにかテニス界最強だよ。…一人じゃ俺は何も出来ない)
ぐ、と握り締めた拳は、ラケットを握る時より力強い。
けれど弱みを見せたらおしまいだ。少し長めに息を吐いて、思考を切り替える。
「で、扉は?」
柳と柳生に視線を向ける。
柳は一言、あぁ、と言うと、確かに遠くからでは分からないだろう壁と同色の取っ手をスライドさせた。
中は音楽室のようだ。
パチ、と丸井が電気をつけると窓際に大きなグランドピアノが位置している他は、とりたてて変わったものもない。
机は無造作に並べられ、楽典やらなんやらが壁際に数冊並べられている程度。
「…音楽室、から外には通じてないか」
「いや、どっかに出口があるはずじゃ」
ないわけがない。
何もないのなら、ここへ導く意味がない。
おもむろに、本当に何気なく幸村はピアノへ近づいた。そして目に留まるのは一つの楽譜。
「…"PURSURE PHANTOM"…?」
楽譜のタイトルを読み上げた瞬間。
バンッ!!
勢い良く扉は閉まり、そしてピアノが独りでに、大音量で旋律をかなで始めた。
「なっ…!?」
幸村は隠しもせず驚いた。正確には、驚きを隠せなかった。そんな余裕すらなかった。
「扉が独りでに!?」
「くっ閉じ込められたか…!全員いるか!?」
「8人、全員いるぜ」
こういうとき、あわててはいるが真田のほうが冷静なのかもしれない。
そう思っていること自体冷静であるのだが、しかし、幸村は全員いるかどうか確認するより先にまるで人がそこに座って弾いているかのようなピアノから、目を逸らせないでいた。
かすかに聞いたことがある。たまに、遅くまで練習をしているとどこからか聞こえていた気がする。
悲しくて、寂しくて、けれど何処か懐かしいメロディー。
「…これ、今日…旧校舎で…」
振り返った先で丸井は、見えない何かにおびえるように呟いた。
そして赤也が。
「…死への旅路…!」
「…はっ!七不思議、総動員で来るってか?」
怖さを吹っ切って、鼻で笑い飛ばした丸井の言葉に、幸村は手にしていた楽譜をぐしゃりと握りつぶした。
[ update 07.10.09 ]