ENDLESS PHANTOM 4

 

 気づけばもう部活終了時間はとっくに過ぎていて。ポケットにしまいこんだままの携帯を開くと、すでに8時半を回っていた。
 一足先に外へ出ると、ひんやり涼しい風が通り抜けていく。それは先ほどまで感じていた寒さではなく、落ち着ける温度だった。

「赤也、お前はまだ準備が終わらんのか」
「すんません!あとちょっと待って下さいよ、英語の教科書が見あたらないんですって」

「嘘だな」
「あぁ、嘘やの」

 ぽつりと、ただ呟いたつもりの言葉に、思いの外近くから返事が返ってきたことに丸井は驚いた。
 赤也のこととなると、ここにいる全員が甘くなる。
 本来ならもっとしっかりしろと注意しなければならないところなのだろうが、どうにも赤也相手だと笑って済ませてしまうことが多い。たんどる、なんていいつつも、結局真田は部室の中へ足を踏み入れ、手を焼くのだ。
 そんなほほえましい光景を眺めつつ、しかし意識は別のところにあった。

 準備は全て整った。

 確かに柳はそう言った。それは聞き違いじゃないはずだ。けれど、その場にいる誰もが、そのことには触れなかった。
 丸井自身も、触れなかった。触れられなかった。
 柳の態度が、というよりは、そのまとう雰囲気が普段と違うことは見て取れるのに、そのことを口にすることができない。まるで、そう、まるで呪いでもかけられたかのように口にすることがはばかられるのだ。

 なぁ、仁王。
 そう言おうとして吸い込んだ息は、音になることなく吐き出されるだけだった。
 幸村が、先に声をかけたからだ。

「気づいてるか」

 誰に話しかけたのか、一瞬わからなかった。
 わからないほど、風のような声だった。
 丸井は暗がりにいる幸村に目を走らせ、そして納得した。

 悟られないよう話しかけているのだ、と。

 部室に背を向け、逆行になるように話しかけてきた幸村は表情を悟らせないようにしている。誰に?ここにいて、ここの者ではない誰かに。

「あぁ」

 仁王が口角を持ち上げる。
 所在なさげにポケットへとしまわれた両手は動かないが、その両手はいつでも引き抜くことができるように見える。
 丸井も丸井で、ガムを膨らませながら平静を装った。

「どうも、面倒なことになってきたようじゃな」
「なにがなんだか知んねーけど、とりあえず普通じゃねぇよなぁ?」
「あぁ。全面戦争でもしてやりたい気分だよ」

 幸村が、常の柔らかな声を捨て、鋭い目つきで背後を一瞥した。
 その行動に丸井と仁王は顔を見合わせただけだったが、自分たちの気づいていないことまで、幸村が気づいていることは明白だった。

 その背後にいるものは自分たち以外の全員。その全員に問題があるのか、はたまた特定のメンバーだけなのか。それは定かではないが。
 よからぬことが近づいていることだけは、ひしひしと感じる圧迫感からも明らかだ。

「お待たせしましたー」

 頭を抑えながら、ムスっとした声で赤也が一声かける。
 こりゃあ探してるのが英語の教科書じゃないとバレたな、と、先ほどとは打って変わって笑みを浮かべながら丸井と仁王はアイコンタクトをとった。

 


 柳が部室の鍵をかけ、一行が校門へと向けて歩き出したのはもう9時になろうとしている時刻だった。
 思っていたより明るい足元に、上を見上げれば満月が煌々と辺りを青白く照らしている。

「丸井」

 今日はいつもにもまして気配が読めない奴だ。
 心の中で毒づきながら、丸井は左を歩く仁王を振り返る。

「なんか、聞こえん?」
「は?」
「旧校舎行った時と同じ音、聞こえん?」

 立ち止まって耳を澄ます。
 先を歩く赤也とジャッカルの笑い声、そして柳と柳生の話し声。真っ先に飛び込んできたその二つの奥の、かすかな旋律を聞き取ろうと丸井は目を瞑った。


「…聞こえる」

 音源は定かでない。何の気なしに振り返った先は、昼間も行った旧校舎。

「…あれ?」

 違和感は、時として異常なまでに異変に正直だ。気づかなくて良かったものまで、気づいてしまう。

「に、仁王…」


 数えるつもりはなかった。ただ、思ったより長いな、と。そう思っただけだった。

 

「旧校舎、俺らが入ったのって、突き当たりの教室だよな」
「え?あぁ、3階の廊下から7つ目の教室…」
「はは、俺数え間違えてる?旧校舎、横に8つ教室あるように見えんだけど」

 乾いた笑は、頼りなく風に乗って消えていった。
 薄暗くなった足元に、空を見上げれば、月は雲に覆い隠されていく。

「な、なんスか、いきなり暗く…」
「…赤也!待て、校門から出るな!!」

 鋭く、幸村の声が響いた。

「え?」

 ジャリ、と、赤也のシューズが校門をまたいだ。

「ふっ…」

 誰かの笑い声が、月が雲に隠れただけでは訪れるはずのない暗闇の中で聞こえた気がした。

 ぐらりと足場が崩れるにも似た感覚が丸井を襲う。咄嗟に掴んだ仁王のシャツは、薄いけれど大きな安心感をもたらした。
 頭が痛い。吐き気がする。立っているのもやっとだ。

(突然風邪を引いたわけじゃあるまいし)

 ぐっとシャツを掴む手に力をこめた。
 と、途端に引いた突然の頭痛や吐き気。息を長く吐き出して、開いた瞳の向こうに見たものは。


「…えっ?」


 出入り口となる扉の向こうに見えるのは、コンクリートの壁。反対側に見える窓の向こうは先ほどまで見上げていた空が広がる。

「うそ、だろぃ…」

 紛れもない、開かずの教室にいた。


[ update 07.09.01 ]

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 そして噂は語る。
 そこから生きて出た者はないと。  [ 07.08.05 ]