世の中にとってそれは青天の霹靂って程大事件というわけじゃないけれど、少なくとも俺たちにとって、俺にとっては重大すぎる大事件だった。
「切原、お前今日も帰んのかよ」
「悪ぃな、久々にバイトねぇから寝てぇんだよ。じゃーな」
授業とバイトの掛け持ちは、思っていたよりは楽だけれど、思っていたより辛い。生活がバイト中心になってしまうとどうしても友達付き合いは浅くなっちまうし、かといってバイトのないせっかくの睡眠時間を遊ぶ時間に当てる気もない。
馴れ合う必要はない。たまに、ふと寂しくなったとき、振り返る場所が、あの人たちがいたら俺はそれでいい。
中学の時から自覚してたけど、俺はちょっとあの人たちに依存しすぎなんだと思う。絶対的なまでの存在。それが、イッコ上の化け物染みた先輩たち。
2年で一人レギュラーになっちまったもんだから同級生といるよりも圧倒的に先輩たちと過ごす時間の方が多かった。朝練、昼練、部活に自主練。決して後悔なんかしてはいないし、今もこれからも後悔する予定はない。
たまにみんなを連れて押しかけるといった柳さんは、引越しの時に手伝いに来てくれたっきり結局みんなを連れては来ないでいる。
大学1年生になってもう半年。夏も終わりに差し掛かった。
忙しいんだろう。俺だって結構バイトだなんだで忙しい。キャンパスでたまに顔を合わせる丸井先輩も、今日もバイトだと会う度に言っている。
けれど今日は久しぶりにバイトがない。一昨日提出期限のレポートに、昨日はラストまでバイト入れて、今朝は1限からサボらずにちゃんと出た。おかげで眠気は限界を超えている。
アパートの階段を登って一番奥に位置する自分の部屋のドアの前に立つ。財布にくっつけた鍵でガチャリと回して、欠伸をしながらドアノブを回すが、どうにも回らない。欠伸も中途半端に止まったままだ。
(…え、俺朝鍵掛け忘れてったっけ…)
冷たい汗が背筋を流れる。大してとられるものがない部屋とは言え、さすがに泥棒に入られるのはごめんだ。それも朝の8時から今現在16時半までずっと鍵が開きっぱなしだった? 冗談じゃねぇ。
もう一度鍵を回して急いでドアを開けた瞬間。
俺は完璧に固まった。
「おかえり、赤也」
あの時と変わらない、けれど大人びた笑顔を浮かべて少しだけ短くなった髪を頬にふわりとかけて、照れくさそうに目の前の人はおかえりと言った。
背は伸びていないみたいだけど何だか酷く華奢になった。テニスもしてなかったのだろうか、白かった肌が更に白くなった幸村先輩が、夢じゃなく、現実に、しかも俺の部屋の中にいた。
「ゆ、きむら、せんぱい?」
「うん。久しぶりだね赤也。元気だった?」
「あ、はい、お久しぶりです」
「それにしても大きくなったね。もしかしてもう俺より大きい?」
「たぶん…ていうか、なんで」
ぺたぺたと俺の頬だとか腕だとかに触っては、その感触を楽しむように微笑んで幸村先輩はとりあえず座ろうよと俺を促す。
ちょっとまってよ。ここ、アンタの家じゃなくて俺の家なんですけど。そもそもなんでアンタが部屋にいるの、どうしてここがわかったの、それより。
今までどこにいたの。
聞きたいことは色々あるんだけど、容量の少ない俺の頭はすぐに言葉にすることが出来なくて、なされるがまま靴を脱いで広いとはいえない部屋の奥に置かれたベッドに二人で腰掛ける。
「びっくりした?」
悪戯に俺の顔を覗き込んで笑うものだから、俺は久しぶりに心臓がバクバク音を立てる。
あぁ、この感じだ。ずっと求めていた、この感じ。
「吃驚しましたけど…いや、そもそも、アンタ今までどこに、ていうか何で俺の部屋知ってるんですか」
「あれ? 蓮二から聞いてない?」
「は?」
「俺さ、実は病気再発しちゃって。海外で療養もかねて手術してきたんだ」
驚いた。この発言には、家に帰ってきて鍵がかかってなかったことよりも、開けたら開けたで微笑む幸村先輩が立っていたことよりも、初めて柳さんの涙を見た時よりも驚いた。
「病気再発? 療養? …柳さんは全部知ってたんですか?」
「柳さんはっていうか、たぶん真田も丸井も仁王も柳生もジャッカルもみんな知ってたと思うけど?」
「はぁ!?」
なんだそれ。じゃあ幸村先輩の名前を出すことがタブーとされたあの3年間はなんだったんだ。柳さんのあの涙は、テニス部に復帰するにいたる涙を誘うエピソードは、たまに部室を襲った気まずい雰囲気は、一体なんだったんだ。
俺一人何も知らなくて、俺一人騙されて、俺一人が空回ってたってことか? そりゃいくら探しても日本にいないんじゃみつかるわけがない。
「あーやばい、蓮二言ってなかったんだ。どうしよう怒られるかな俺」
「つーか話が全く見えないんですけど…とりあえず、身体は大丈夫なんですか?」
「うん。4年も向こうで療養生活送ったからね、テニスはもう出来ないけど日常生活に影響はないよ」
「…テニス、もう出来ないんですか?」
「お遊び程度なら出来るけど…本気ではちょっともう無理かな」
何て顔してるんだ。
そう言って幸村先輩は俺の鼻を軽くつまんで笑う。本当に強い人だなと思う。俺だったらきっと耐えらんない。
テニスが出来なくっても幸村先輩は幸村先輩だけど、どれだけこの人がテニスを愛していたかも俺は知ってるから、そのテニスを本気で出来なくなってしまったことは相当ショックだっただろう。だからこその4年間だったのかもしれない。
「で、蓮二は何て?」
俺が一人で感慨に浸っていると幸村先輩はごろんとベッドに横になって枕を抱える。だからここ俺の部屋だっつの。
「…柳さんは、幸村先輩が中学最後の全国で負けた責任からいなくなったって…だから高校ではアンタの名前はタブーだって…」
「他のみんなも一言も俺の名前出さなかったんだ?」
「…はい。たまにちらっと誰かがいった後は気まずい空気になっちゃって…」
「真田も?」
「…真田先輩は、何かを言いかけるたびに柳さんに、止められて、た、ような…」
「じゃあ蓮二と仁王発案だね、その大掛かりな芝居。ふふ、いいなぁ俺もやりたかった」
「…やっぱ、騙されてたんだ、俺…」
何のためにどうして。なんてあの先輩たちにそれを求めるのは筋違いだ。面白いことならばどれだけの労力を払おうともしてのけるのがあの人たちだ。
真田先輩まで暗黙の了解というように幸村先輩の名前を出さなかったから俺も騙された。真田先輩まで乗っちまったら、俺にその芝居を見破る術はない。ちくしょう。今になって腹が立ってきた。
「あ、もしかして、住所も柳さんから?」
「うん。お前の卒業式の日にメールで届いて。日本に帰ったら真っ先に会いに行ってやるといい、三年かけて必死にお前を探し続けていたからなって」
「…あの人もまた…」
「鍵は引越し手伝いに来たときに合鍵勝手に作ったから出入りはご自由にって。あ、勝手に鍵開けて入ったから」
「それ訴えたら俺勝てますよ、法廷で」
「俺のこと、ずっと探しててくれたんだ?」
ふわり。
そう笑って、話の流れなんてガン無視した幸村先輩と俺の目が合う。
探してた。ずっとアンタだけを探してた。
他の誰だっていらなくなるくらいアンタのことだけ考えて、アンタに会うその日だけを夢見て今日までやってきた。
またね。
アンタがそう笑っていったから、それだけを信じた。
「幸村先輩だけいてくれたら、俺あとなんにもいらないから。ずっと探してました。おかえりなさい、幸村先輩」
寝転ぶ幸村先輩の頬にすっと手を伸ばして触れると、くすぐったいよとアンタが笑う。ちょっと白くなって華奢になった身体は、だけどとても綺麗で、触れると壊れるんじゃないかとさえ思った。
だけど壊れない。夢からも覚めない。本当に手に届くところに幸村先輩がいる。
それがただただ嬉しくて、俺も幸村先輩の隣にごろんと寝転ぶと幸村先輩は狭いといって俺を蹴った。
もうなんでもいい気がした。ここは俺の部屋で、俺のベッドだけど、幸村先輩が笑ってくれるなら寝床を取られても別にいい。幸村先輩がいて、幸村先輩が俺の名前を呼んでくれて笑い掛けてくれるだけで、もうなんだっていい。
「ただいま、あかや」
床に転がった俺にそう言って手を差し伸べて、ぎゅっと抱きしめてくれるもんだから、俺も負けじと強く強く抱き返した。