伝えたい言葉は死ぬほどあるのに、伝える術を僕は知らない。
けれど確かに言葉にするから、誰でもない君に届くようにと僕は想いを込めて唄うよ。
駅を出てすぐ開けた広場で彼は声を張り上げる。
コツコツと買ったばかりの新しい革靴が音を立てているはずなのに、まるで俺の耳には届かない。
それは彼が歌っているせいでもあるけれど、俺が耳を傾けているからという事実に外ならない。
何度だって見てきた光景だし、何度だって聞いてきた。同じ歌はなかったにせよ、喧騒の一部と捉えて今まで何度も足速にバス停へと歩いてきた。
なのに俺は今、立ち止まりそうな勢いで歩いている。速度は次第にゆっくりと。人混みの隙間を縫って視線を巡らせたなら、唄い人は、深々お辞儀をしているところだった。
それはただの気まぐれなんかじゃない。
聞き覚えがあったんだ。ちょっと癖はあるけれど、でも伸びるほんのり甘い声。そう何度も聞いたことがあったわけじゃないし、歌うといつもと声が変わるから、瞬時に判断なんか出来ないけど。
「…丸井…?」
そこにいるのは、確かに中学高校を共にした丸井ブン太その人だった。
歌い終えた丸井の周りには人だかりが出来ていて、拍手に加えてギターケースにお金を入れて行く人までいる。
これまでストリートミュージシャンになんて興味のなかった俺はその光景が新鮮で、暫く遠巻きに見ていた。
高校を卒業してからの丸井の進路を俺は知らない。みんなで仲良く進路について相談したことなんか一度だってないし、何となく俺は全員が揃って立海の大学部へ進学するものだと思い込んでいた。
それが実は当たり前なんかではないことだと思い知ったのは蓮二が外部を受験したこともあった。蓮二だけじゃない。仁王も丸井も、立海の大学部でその姿を見ることはなかった。
じゃらじゃらと音を立てながら、丸井はギターケースに投げられたお金を丁寧に大き目の袋にしまっていた。チャックを閉めて鞄へ放り込んだなら、今度は大事に抱えていたギターをケースに慎重にしまっていく。
何度も見た光景だった。
場所だって違う。年だってくった。持っているものなんか、更に。
だけどその光景は、あいつが試合を終えた後いつもしてる動作だった。大事に大事に、ラケットをケースにしまうその動作。普段結構ぞんざいなところがあるだけに、俺ははじめ違和感があったのだけど、それだけ丸井がテニスを好きなんだということが伝わってきて、それは次第に丸井のイメージになった。
あいつは物を大事に出来る人間だ。物を大事に出来る人間は、人をも大事に出来る。
一歩、ゆっくりと丸井へ向かって踏み出したなら、さっきまでは聞こえなかった靴の音が思いの外大きく響いたように聞こえた。
相変わらず多い人並みを縫って丸井に近づけば、丸井はようやく荷物を全部整えたところでうつむいていた。
「久しぶり、丸井」
唐突に、本当に唐突に声をかけた。丸井はバッと勢いよく顔を上げて、まじまじと俺の顔を見る。そしてしばらくの間間抜け面を惜しみなく披露してくれた後で、しゃがんだままどちら様としたり顔で切り返す。
「あれ、人違いだった?」
「いや? 俺は丸井で合ってるよ」
「そう。 じゃあボケちゃったのかな。6年間も一緒にプレイしてきたのに」
「よく言うよ。俺の進路なんかちーっとも気にかけなかったくせに」
ボケてんのは幸村くんだろ。
ギターを背負って鞄を肩に掛けて丸井が立ち上がる。いくらか伸びた背は、だけどやっぱり俺には届かなくて、なんだかそれが酷く嬉しい。
よほどにやにやしていたのか、丸井は何、と少し不機嫌そうに呟いた。けれど俺は別にと上機嫌に返すと丸井は呆れてため息をついた。
「飯、もう食った?」
「え? いや、まだだけど」
「じゃあ久しぶりに一緒に食いに行こうぜ。このあたりに俺がよく行く店あんだ」
「丸井ってこの辺に住んでるの?」
「いや。こっからバスで10分くらいのとこ。でっかい機関車のある公園の傍」
「うそ。じゃあ俺と近いじゃん」
「…まじで?」
「まじで」
駅前から離れて路地を進めば、今まで気づかなかったラーメン屋があった。よーっすと元気よく声を上げながら丸井は店の暖簾をくぐる。よく行く、と言っていただけに店主と顔見知りのようだ。また来たのかと茶化されて、今日は客連れてきたからいいだろと笑って言い返す。
気さくで、誰からも好かれて、そして誰をも愛すことの出来る丸井が、俺は6年間ずっとうらやましかった。器用に振舞えるけどその分疲れるし、毒気を抜くにはイラつくしかなくて。てんで子供でみんなに迷惑をかけっぱなしだった俺の毒気をさりげなく緩和してくれていたのは丸井だったと、大学に入ってからしみじみ思った。
カウンターに腰掛けた丸井の隣に座ると、店主は目を見開いて俺の顔をまじまじと見る。それからじとりと丸井をみやると、強制連行してねぇだろうなと身を乗り出していった。
「ちっげーよ!こう見えてもコイツめっちゃくちゃ漢前だから!」
「え、ちょっと、丸井。それ聞き捨てならないよ」
「そうだぜブン太!こんなべっぴん、そもそもお前と知り合いなのかよ」
「おっちゃんそっから疑うの!?」
「あ、一応俺丸井のかつての友達です」
「幸村くんもかつてとか言うな!」
がーっと吠え立てる癖は変わってない。店主のおじさんはとても陽気な性格のようだ。たぶん来るたびに丸井は遊ばれてるんだろう。そう思うと丸井があまりにも変わっていないことに口元はやっぱり自然に緩む。
「…まーた笑ってやんの。幸村くん何食べる?」
「んー何がオススメ?」
「断然塩!」
「じゃ、それで」
「オッケー。おっちゃん塩大盛りで二つね!」
「おいおい食えんのか」
「だからコイツ漢前なんだって。俺の倍は食うよ」
「そりゃ頼もしい限りだな」
そう言って店主がラーメンを作り始めたので、俺は丸井に向かって首をかしげる。
「俺ってそんなに貧弱に見える?」
「貧弱っつーか…まぁ少なくともラーメン大盛りで2杯食って餃子を三皿食べられた奴には見えないよ」
「それは昔のことだろ。今はさすがにそこまで食えないよ」
「どーだか」
ふっと笑って水を口に含む仕草がなんとなく大人びて見えて、変わってないのに変わっちゃったんだなぁと思うとちょっと寂しくなった。
丸井の進路を気に留めていなかったのは確かに俺だけど、丸井も丸井で一言くらい言ってもよかったんじゃないかと思う。それが例え俺のわがままだとしても、言って欲しかった。俺はまだ、みんなと一緒にいたかった。
「そういやさ」
勝手に拝借したお新香をつまみながら、丸井は思い出したように言う。
「仁王留学してたんだって?」
「あぁ、うん。もう帰ってきてるけど」
「へー。俺知らなくってさ。あいつ最初は立海の大学部進むって言ってたし。何で突然留学したんだかな」
「…仁王とは進路について話したの?」
「へ? あぁ、まぁ。ていうか進路について話さなかったの幸村くんだけだよ。他の連中はみんな相談とかし合ってたし」
まさか、と思った。俺はてっきりみんながそれぞれ勝手に進路を決めたと思っていたから、相談してたなんて知らなかった。
あからさまに驚いている俺を見て丸井は取り繕うようにあわてて手を振って、別に仲間はずれにしてたとかじゃなくて!と弁護を始める。
「幸村くん最初っから大学部進むつもりで迷ってなかったし、高校入ってからも一回入院したじゃん?それで勉強取り戻そうと必死だったからさ、みんなでアイツには余計な負担をかけないようにしておこうって」
「…それ言ったの真田だろ」
「発端はな」
「なるほどね。それで蓮二も相談なしに外部受けやがったのか…」
「柳は例外。あいつ最後までお前と一緒に大学行きたがってたけど、赤也がガツンと言ったんだよ」
「赤也が?なんて」
「部長のために進路変えたって部長は怒りますよって」
「うわー月並みな台詞」
「とろこがその後が俺たちみんな吃驚した台詞でさ」
丸井が一杯水を飲む。それをしっかり待って、俺は続きを促した。
「なんて?」
「部長には俺が着いてなくちゃとか思ってるかもしれないけど依存してんのは柳さんの方ですよ、いい加減しっかりして下さいよってさ」
「…うわーなんか赤也が成長してる」
「だよな。俺たちもそれ聞いて吃驚してさぁ。帰り道みんなでしみじみ赤也の成長について語り合ったよ」
「楽しそうだなぁ。俺も一緒にいたかった」
俺たち全員が親であり兄のようなものだった。赤也の成長はとても楽しみで、少し怖くて、だけど期待していた。俺たちになついてくれていたのも知っていたから余計に可愛くて、過保護すぎるくらい手をかけた。同じくらい手も上げたけど、まぁそこは愛のムチと言うことで。
「塩ラーメンふたつお待ち」
どんとおかれたラーメンに、勢いよく俺と丸井は食らいつく。思いの外腹は減っていたようで、それも相俟ってラーメンがとても美味しく感じられる。
「幸村くん」
「ん?」
ラーメンを食べながら、なんでもないことのように丸井は口を開く。
「俺、幸村くんに会いたくて、ずっとこの辺でストリートライブやってたんだ」
そういえばまだ、丸井の今について何も聞いていなかったなと、その一言で思い出したんだけど。とりあえず、そんな嬉しい一言を聞けたことに満足しちゃって、数秒後にはまた、丸井の今について聞くことを忘れるんだろうなぁと思いながらチャーシューをそっと丸井のラーメンに乗せてやった。
Fin.