メルト・ダウン

 

 後ろ手に鍵を閉めて鞄を下ろして靴を脱いでベッドに倒れこむ。そこまでしてようやく自分が緊張していたことに気がついた。緊張していて余裕すらなかったのだと。

 どうしようどうしようどうしよう。

 ごまかす余裕なんて、謝る余裕なんて、気持ちを告げる余裕なんて持ってなかった。
 ただ、引き寄せられるように、本能のまま奪ってきた。あの人の、唇を。

 驚いていた。驚いたそのあと、あの人が浮かべた表情の意味を俺は知らない。もともと感情が読みにくい人だ。怒っているのか悲しんでいるのかさえ判別がつかなかった。でもそれはきっと向こうも同じこと。

 日ごろから男らしくない顔だちを気にしているあの人のことだから、今頃もしかしたら怒り狂っているかもしれない。キスするほど、俺の顔立ちは女っぽいかと。
 違う。そうじゃないんです。
 何も言われていないのに否定するのははばかられて、それこそ行為自体を否定している気がして俺からは何も言えなかった。言うべきことはいくらでもあったのに。

 どうしようどうしようどうしよう。

 ぐるぐる回る思考はまとまらない。ただでさえあの人みたいに高性能じゃないこの頭は、やっぱり考えるのは嫌われてしまったんじゃないかという一つの恐怖。
 好きだった。ただ、好きだった。気持ちが伝わればいいとか俺を好きになってくれたらいいとか手に入ればいいとか、ちっとも考えなかったわけじゃないけど、それでもただ傍に入れるだけで幸せだったのに。

 ばかだ。本当に、俺は。

「…ゆきむら、さん」

 許してもらえるなんて思っちゃいないけど、やっぱり今からでも行って弁解した方がいいんだろうか。
 でも、なんて。

 酒が入って調子に乗って、頬を赤く染めるあんたがあんまりにも可愛かったから、気持ちを抑えられませんでしたって?
 それこそ鉄拳制裁が待っている気がする。気持ち悪いなんて言われたら立ち直れない。俺の気持ちまで否定されたら今すぐにでも死ねる。死ぬつもりはないけど。
 キスするなら、理性が飛ぶなら、それより先に言わなくちゃいけなかった2文字の言葉。

 好きです。
 あんたがずっと好きでした。

 言えばよかった。やり逃げなんて卑怯だ。キスをして我に返って酔いなんかサーッと醒めちまって。

『…赤也、』

 あの人の口が俺の名を、少し咎めるように紡いだものだから。俺はとっさに逃げてしまった。
 無機質な声だった。感情が何一つ乗っていない声だった。

 怖かったんだ。
 俺は、ただ単に怖かった。
 あんまりにも臆病ものだったから、あの場にいることが辛くて怖くて苦しくて逃げて帰ってきた。

 だけど去り際に言えばよかったんだ。どうせ嫌われるなら気持ち悪がられるなら、すべてを吐き出して帰ってきたらよかった。

「…ほんと、俺ってバカ」

 一呼吸おいたら、せめて電話くらいしよう。
 深く深く息を吸って、深く深く息を吐く。
 腕に力を込めて立ち上がる。玄関に置いたままのカバンから、携帯を取り出して電話をかけよう。
 これからまた行ってもいいですか。さっきの、行動のわけを、説明しますから。
 言えるだろうか。電話を切られないだろうか。まず出てもらえるだろうか。
 軽く目まいを覚えながら、玄関にしゃがみ込んで鞄をあさる。

 ピンポーン…

 突然なるインターフォンに、思わず肩をびくつかせ、電気をつけることも忘れて鍵をあける。途端。

 ガチャッと自分では手をかけてないのにドアが力強く空き、問答無用で姿を現したのは。

「ゆ、きむら、さん…」

 俺を押しのけて玄関に入り、俺がそうしたように後ろ手でドアを閉めて俺を見る。
 まっすぐな目。逃げも隠れもしないこの人を表す、目。

「赤也」

 凛と背筋を伸ばした幸村さんに呼ばれた俺は、部活中みたいに動けない。とっさに姿勢を正すのは、何度となく中学時代叱られてきたせいだろう。

「とりあえずさっきの行為の弁解を聞いてやる」

 腕を組んで壁に背を預けて。電気もついていない、それも玄関で、幸村さんはやっぱり表情を殺して俺を見据える。

 言わなくちゃいけない。
 弁解じゃなく、それはこの人が望むものではないだろうけど。

「好きです」

 隠してなんて、たぶん単純バカな俺には無理な話だったんだ。
 スパッと告って振られた方が、あきらめがつきそうだ。

「あんたが、ずっと好きでした。」

 きっと一生で一番緊張する告白。両手で作った拳は思いの外力がこもっていて、やっぱり余裕なんかねぇやと内心苦笑する。だけどこの思いは本物で、まぎれもなく本物で、生半可なものじゃないと、ほんの少しでも伝わったらいいと、顔だけは凍ったように真顔のまんまだ。

 怖い。
 逃げたい。

 何度となくこの人とはネット越しに対戦してきたけど、こんな玄関で、それこそ試合前のような空気になったことはない。ネット越しなら、ラケットを持っていたら、ユニフォームだったら、きっとここまで怖くない。

 だって、これはテニスじゃない。

 ごくり、とつばを飲み込むと、幸村さんはうつむいてふっと息を吐く。
 笑った?と思う間もなく顔を上げた幸村さんは、やっぱり違うことなく笑っていた。

「お前さぁ、言葉より先に体が動くって、いろいろまずいと思うよ」

 まぁ相手が俺だったから別にいけど。
 眉尻を下げて情けなく笑うこの人に、俺は今だ状況がつかめなくて拳の力も解けないまま。

「え、ちょ、幸村さん?」
「ふふ、しかも動くだけ動いてやっぱり何も言わないで帰っちゃうし」
「あ、それは、すんません…いや、ていうか!」
「ん?なに?」

 ちょこんと小首を傾げる様は、中学の頃より断然大人っぽくなったはずの顔立ちなのに子供っぽい。バランスが取れてるのにアンバランスなこの人に振り回されるのは、当の昔に慣れたはずなのに、いちいちまだ反応する心臓に嫌気がさす。

「怒って、ないんですか」
「怒る?逃げたのは腹が立ったけど、別にキスされたことは怒ってない」
「…それは、その、俺の都合のいいように解釈しても?」
「…あぁ、そうか。お前さっき告ってたな」

 忘れてたと悪戯に笑って肩をすくめたあと、幸村さんは腕組みをといてポケットに手を入れた。

「お前が思うより、俺はお前が好きだ」

 こっちだって身体張ったんだ。
 ニッと口角を持ち上げて笑うこの人は、俺より何倍も格好いい癖に可愛くて、本当に、嫌になる。なんだってこんな可愛いことをしてくれるんだ。ほんと。

「あんた、性格悪いっスね」
「でもそんな俺に惚れたんだろう?」

 やっぱり一枚も二枚も上手なことの人には、一生かけてもかなわないんだろう。
 そう思ったら、色々と諦めがつきそうだった。



Fin.