この感情につける名前を知らない。
始まってほしくないとも、けれどこのまま終わってほしくないとも思う。
この、名前、は。
ピピピピピ…
目覚ましがけたたましく耳の真横で鳴り響く。いつの間に目覚まし時計を抱えながら寝たのだろう。記憶にないが、枕と一緒に手繰り寄せたのかもしれない。
むくりと起き上がり、覚醒しきらない頭でカーテンを開ける。本当はそんな行為だって面倒なのだけど、それでも部屋に親が入った時、カーテンを開けておきなさいと口うるさく言うものだからいつの間にか習慣化した。
幸村の起きる時間は早い。
例え同じ部で副部長を任せている奴ほど早くないとしても、一般的な、そう、ごく普通の生活を送っている中学生に比べたら、断然早い方なのだろうと思う。
予感はしていた。
始まると。
気づいてしまうと。
もう、あとには戻れないのだと。
この感情に、この感覚に気づいたのは、いつだったろうか。
思い出したくもない。
だって、未だに夢に見る。
3年に上がってすぐ、見舞いだとあいつが珍しく一人で病室を訪ねてきた時。
生意気な双眸が俺の目をとらえる。一歩、そしてまた一歩、じりじりと距離を詰めてくる。
『ねぇ、部長』
吐き気がした。
俺が部長になってから、どれだけの時間をお前と過ごした。どれだけの時間、お前にとって俺は部長だった。
笑おうとして、だけど笑えない自分に驚いた。あぁ、もうそこまで筋力は衰えたのか。自分は死ぬのか。もう、あそこには戻れないのか。
目の前にいる人物のことなんか、まるで頭になかった。あった試しがなかった。
いつだって生活の中心はテニスで。そのテニスは勝つためにあって負けは許されない。それが王者の誇り。先代の部長も口にしていたし、勿論自分だってそう思っていた。
『ねぇ、部長』
ギシ、とベッドが唸り声をあげる。挙げて初めて、病室へと入ってきた、いわば侵入者が目の前にいることに気がついた。
『アンタの中に、俺はいる?』
切なげな瞳だった。
それだけが、印象だった。
切原赤也という人物を、よく知らない。
一つ下の後輩で、確かにテニスのセンスは良くて、だけど性格と精神面に問題あり。スプリットステップをこの年で使いこなせる貴重な、そう。
貴重な、コマ。
『超えてみせるよ。あの二人の化け物も、その親玉のアンタも』
ニヤリと口角が上がった。
あぁ、これがこいつの素顔なのだ。
そう思った時にはもう、するりと入りこまれた。珍しい。いとも簡単だった。
じりじりと焦げていく。
アスファルトの上で、みみずが干からびていく。
ジーッジーッ
蝉が夏を告げる。自分は今日から、戦場へ、戻っていく。帰れる。
制服に袖を通してラケバを背負う。
誰にも言っていない。真田と柳は怒るだろうか、それとも破顔して手放しに復帰を喜んでくれるだろうか。
あいつは。
あいつは、赤也は、どんな顔をするだろうか。
挑戦的に笑うのだろうか。驚いて阿呆面をさらすのだろうか。それとも、復帰を喜んでくれるのだろうか。
まるで試合をしているみたいだ。相手の出方を窺って、そして結果を予測する。いい方にいい方に。決してネガティブにならないように。そして、主導権を取られないように。
俺の戦い方を、見せてやる。挑発したのはお前だ。
口の中でだけぼそりとつぶやいて、行ってきますと一度後ろを振り返り一日の始まりへ一歩踏み出す。
この感情につける名前を知らない。
始まってほしくないとも、けれどこのまま終わってほしくないとも思う。
この名前は、愛でも恋でもなく。
FIN