GLASS

 

 何度目か知れない幸村の病室を前にして、やはり赤也はその扉をノックできないでいた。手術が成功してすぐ、青学に負けたことを報告に来た真田と共に赤也たちもまた、幸村の悲痛な叫びを聞いた。

 真田の声は聞こえなかった。しかし幸村の声は聞こえた。

 テニスの話はするな。

 あんなにテニス一色だったのに。鬼だって思うくらい滅法強くて、一生懸命で、それに命かけてたのに。
 赤也はそう思いながら、だからこそか、と一人納得した。

 手術への不安だとか、みんなと離れた寂しさだとか、そういうものを全部ひっくるめてコートに再び戻ることを決意した幸村。けれどテニス自体が出来なくなるなんて、誰一人予想なんかしてなかった。勿論赤也だってその一人だ。
 手術は成功した。これから楽ではないだろうリハビリを経て、また一緒にプレイできるものだと思っていた。
 コートに出れば、悪いところを的確に注意して、たまに悪くないのにしごかれたりして、そんな疲れるけど確実に強くなれる日々を、なんの問題もなく送れるのだと思っていた。


「……、」


 息を吸い込んで、軽く握った手をすっとあげる。
 けれど、何度も、何度も、個々へ来るたびに何度も繰り返したその手が、結局扉をノックすることはない。

 怖い。拒絶されたら怖い。

 幸村に会いたいけれど、言葉をかける術を知らない。
 テニスが出来る俺が、部長に言葉をかけるのはいやみなんじゃないか。

 そんな考えばかりが赤也の頭を過ぎる。


 赤也にとって幸村は、ただの同じ部活の先輩じゃない。
 幸村にとって赤也がただの後輩であっても、赤也にとっては違う。

 憧れであって、超えなければならない人であって、共にプレーしたい人であり、失っちゃいけない人。
 何度だって救われてきた。本気でテニスを辞めようと思った日も、ボッコボコに負けた日も、勿論勝った日も、いつだって赤也のそばには幸村の柔らかな笑顔があった。
 厳しくて、強くて、一人で生きていけそうなほど逞しいのに、案外寂しがり屋で口下手で、仲間思いな幸村に、何度だって助けられた。

 エゴでしかない。けれど、今度は自分だって幸村を助ける手伝いがしたい。

 グッと意を決してノックをしようとする。
 前を向いて、息を吸い込む。

 叩け。

 そう思った瞬間。


「…いつまでそこにいるつもりだい、赤也」

 若干呆れたような、ちょっと柔らかな色を含んだ声が、くぐもって耳に届いた。
 ガラリと扉を開けてばつが悪そうに赤也が視線を逸らしながら、今入ろうかと、と呟くと幸村はぷっと笑った。

「お前さぁ、扉の前にずっと立ってたら不審者だぞ」
「…だって、入るつもりだったから」
「頭で誰かはすぐに分かったけど、結構不気味だからな」

 テニスバッグは置いてきた。テニスの話題なんか出してない。幸村はあの日の叫びが幻聴だったかのように微笑んでいるし、そこに座れば?なんて椅子を指差す表情はとても明るい。
 なのに何故こんなにも咎められている気になるんだろう。

 居心地の悪さを感じながら赤也は指差された椅子に座る。

「今日は静かだね赤也」
「…ッス」
「あれ、頭に葉っぱ付いてるよ。どこ通ってきたの」


 そう言って差し伸ばされた幸村の腕。
 ふわりと香った消毒の匂いよりも、点滴のあとよりも、その細さに赤也は目を見開いた。

 色白なのは元からだけど、前はもっとしっかりした筋肉が付いていた。華奢なくせに力強いその腕は、本当に羨ましくて悔しくて、彼自身を目指して、追い越せるように頑張ってきた。

 言いたい事は、それではなかった。もっとちゃんと、別のやり方で接したかった。

 赤也はぱしっとその細くなってしまった白い腕を右手で掴むと、幸村の顔を見ないまま拗ねた子供のように声を絞る。


「戻って、来て下さい…」


 変に明るい幸村も、やたらと微笑む幸村も、どっちもホンモノじゃない。気丈に振舞おうとしているのが赤也にもわかるからこそ余計に辛くて、これが真田や柳だったら本音を吐いていたのかもしれないと思うと、後輩という頼りないポジションが歯がゆい。
 何の返事もない幸村の顔を、ゆっくりゆっくり見上げれば、あんまりにも多すぎる感情を自分でさえもてあましている幸村がそこにいた。

 怒り。
 悲しみ。
 妬み。
 羨望。
 拒絶。

 堪えようとしても堪えられないそれらの感情が、一気に爆発して、そして矛先は赤也へ向く。


「簡単に言うなよ」

 ふわりとした中に鋭さのあるその声は、赤也の手に包まれたままの腕は、僅かに震えている。

「戻れるものなら俺だって!テニスがしたいよ!」
「じゃあ頑張りましょうよ!」
「だから簡単に言うなよ…お前に何が分かるって言うんだよッ!!」

 腕を振り払われて、どんとつけ返されて、赤也はうっと声を漏らす。
 幸村は枕を力任せに赤也に投げつけると出てけよと叫んだ。

 こんなに感情を表に出す幸村をはじめてみた。小さい子みたいに泣いて、叫んで、誰かに八つ当たりして。そんな、誰もがしていることをこの人はしなくちゃいけなかったんだ。
 嗚咽を漏らす幸村を見つめながら、赤也は胸が詰まる思いがした。

 真田副部長にも、柳先輩にも出来ない俺だけの仕事。

 赤也は立ち上がって、握った拳に力を込めた。


「立海の、俺達の部長は、アンタしか認めない」


 はっきりと、そしてゆっくりそれを口にしたなら、幸村の肩がビクッと震えた。


「テニスが出来ない幸村先輩でもいい。俺たちが必要とするのはアンタだけだし、俺達をまとめられるのもアンタしかいない。代わりなんて誰も出来ないし、俺は認めない」
「そんな、勝手な事…」
「だけどアンタはまだウチの部長です。不可能を可能にすんのがアンタだろ」


 憎んだっていい。恨んだっていい。怒りを覚えて拒絶されたって、幸村が再び歩き出す活力になるのなら自分はどう思われたっていい。
 なんて声をかければいいかなんて知らない。慰めるための方法も知らない。

 だった無理につくろう言葉なんか、言わない。
 慰めて気持ちを汲むことが出来るあの二人のような大人じゃないのだから、恨まれ役は俺にしか出来ない。
 普段から問題児として扱われてる。思ったことを口に出す前に、一度噛み砕けとも言われている。だけど今、言葉を噛み砕いてしまったら、きっと伝わるものも伝わらない。


 今の幸村は、僅かな光さえも見失っている。
 目を開いていないのだから、そこに光があることにさえ気づいていない。


「テニスが、出来ないって…医者に言われてなけりゃ、アンタは同じ体でも努力してたはずだ」

 一番辛いのは幸村。
 その苦しみを体で、心で、言葉では表せない鋭さで味わっているのも幸村。


 自分にはどうする事もできない。慰めの言葉をかけたところでそれは偽りでしかない。
 酷な事を言っているとわかっても、幸村自身がテニスをしたいと望むのならば、その手助けはしてやらなければ。

 嗚咽を漏らす幸村の細い肩に、手を伸ばしかけて赤也は思いとどまる。

「もし」

 必要なんだ。失くしちゃいけないんだ。手放しちゃ、いけないんだ。
 赤也に幸村が必要なように、幸村にはテニスが必要なんだ。


「もしアンタが、テニスを本気でしたいって思ってんなら、俺達全員、リハビリだろうがなんだろうがとことん付き合いますよ。誰一人、断る奴なんていません」


 今日は帰ります。すんませんした。

 投げつけられた枕をベッドの上に戻し、赤也は踵を返す。
 閉められた病室の扉が、その奥にいる愛しい人が、自分を受け入れてくれることはもうないかもしれないと思いながら。

 

 

[ update 08.02.26 ]

 

Fin.