幸村部長!
夏はとっくに終わりもう秋だというのに、季節がめぐっても変わることのない暑苦しい笑顔で俺の名を呼ぶ馬鹿みたいに素直な後輩は、いつもそこにいたはずなのにいなかった。
そこにだけじゃない。彼は、あいつは、もう、この世界のどこにだっていないのだ。
「いやいやいや、勝手に俺を殺さないで下さいよ」
精一杯の呆れ顔を装って、けれど内心結構焦ってのほほんと笑う目の前の人に文句を言えば、その目の前の人は先ほど店員が運んできたストレートティーを冷ましもせずに口に運んだ。
「だって見たんだから仕方ないじゃないか、夢」
呆れ顔での抵抗も空しく、まったく気にしていない様子の幸村は席についてすぐ運ばれてきたお冷に口をつけた。
「冷ましもせずにいきなり飲むから火傷するんですよ」
本当に紅茶が熱かったらしい幸村は眉根を寄せてじとりと赤也を睨んだけれど、こわもての我が部の副部長殿に比べたら外見だけはおっとりしているのでちっとも怖くない。
けれどだからといって調子にも乗らない。過去の経験からあまりからかい過ぎたり図星を言い当てすぎたりした先に待っているのは、コブラツイストかエルボーだと相場は決まっている。
実際経験したのは赤也でなくこわもての副部長殿だが眼前で目撃したので、こっそりと赤也の中での立海三大恐怖のうちの一つだ。
相当に痛かったのか幸村は氷をがりがりと噛み砕き、何度かもごもごとさせてから口を開いた。
「氷噛み砕いてるとなんか跡部をかみ砕いてるみたいでスカッとするよね」
「いやしませんよ。ていうかどんだけ残酷なこと考えながら氷食ってんですか」
「あ、で、夢でさ」
「話振っといて放置かよ」
表情だけはうんざりして、赤也は自分のコーラを真田か柳がいたら殴られるだろうと思いながらも音をたててストローでずずずと啜った。
けれど内心ではうんざりしているはずがない。大好きで大好きで、もともと手に付かない勉強が更に手に付かなくなるほど考えている意中の人からデートのお誘いをもらったのだ。正確にはただ出て来いといきなり何の説明もなく言われたのだが、まず喫茶店に入った時点で赤也の中では勝手にこれはデートだと位置づけられた。
学年も違えば立場も違う。部活中は手の届かない雲の上の人と一緒にいられるだけで幸せなのだから、うんざりできるはずはない。けれど相手が幸村である以上、調子に乗らせるのはまずいと部の先輩から嫌というほど学んだ。糸目の一見賢そうな背の高い先輩は、会計というテニス部に必要なのかどうかわからない役職についていながら実質影の支配者となっている。その彼が幸村を調子に乗せるなというのだから間違いない。常に調子に乗りっぱなしの幸村を止めるのはいささか大変だが、それでも赤也は任務を全うせねばならない。校外で立海の最強部長の素性を露呈しようものなら恐らく2日で半年分のメニューをこなせだとか無理難題を押し付けられるに決まっている。
ぞ、と背筋を何かが通り過ぎた所で、幸村の自分を呼ぶ声にハッとして顔をあげた。
「あかや聞いてる?」
「え、すんません、聞いてませんでした」
「えー。俺今すごいいいこと言ったのに。一世一代の告白したのに」
「こっ!? ちょ、もっかい言ってくださいよ!」
「だからね、赤也が死んだらしい理由が、実はベニテングタケをお腹いっぱい食べたせいだったみたいで、」
「いやいやいや、勝手にそんなひどい理由にしないでくださいよ」
「だって見たんだから仕方ないじゃないか、夢」
けろっと悪びれもなく、むしろ楽しそうに微笑まれては返す言葉もない。というより反発すること自体無駄だと培われた勘が言っている。
だいぶ冷めたのだろう紅茶を優雅に一口飲むと、幸村はそれに、と言葉をつづけた。
「一応悲しんでたし、俺」
「一応とか! ていうかよくよく思い返せば暑苦しいとか馬鹿みたいにとかけなしてるじゃないっスか!」
「すごい赤也! よく気づいたね」
えらいえらい。
そう言われてがっくり肩を落としてみせると、ここぞとばかりにうなだれた頭を幸村はなでてくる。なでてくる、ように見えるのは見た目だけで、外見に反してリンゴくらい片手で木っ端みじんにできるだろう握力と腕力を兼ね備えた幸村は、実のところ赤也の頭をテーブルに沈めようと力んでいる。だから赤也はテーブルに額を強打することをなんとか逃れようと必死に首にありったけの力を込めて集中させた。今の位置を何としても維持してみせる。でなくばあっという間にテーブルとご対面だ。
だけど、だから反応が遅れたのかもしれない。
「でもこれは触れるからちゃんと現実なんだね」
え?
瞬間突然に軽くなった頭に対処できず思いの外すさまじい勢いで顔を上げる羽目になり、ちょっと首を痛める寸前だったけれども、それでもしっかり午後の陽だまりを受けて少しうつむく幸村の一瞬の表情をとらえることができた。
少しうつむいて、けれども幸せそうな笑顔。一度だけ見たことがある、長い入院と困難な手術をたった一人で乗り越えてコートに戻って来たあの時の笑顔。
何が今の表情を作らせた?
赤也は疑問符いっぱいに、けれどほほ笑む幸村を可愛いと思いながらコーラに口をつけてただ見つめる。待てばそのうち、幸村が語りだすだろうと思った。なんでかわからないけれど、確信があった。
その確信はやはり間違ってはいなかったようで、紅茶をかちゃかちゃスプーンでかきまわしながら幸村はぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。
「夢って、俺普段はあんまり見ないんだけどさ」
「…ッス」
「たまにみると、こういう、なんていうか、変な夢なんだよ」
俺が死んだ夢は変な夢なのか。一瞬そう突っ込もうかと思ったけれど、思いとどまった。幸村の表情がそうさせなかった。垣間見える病室での表情に赤也もつられて苦しくなる。
「入院中とか、テニスができなくなる夢だったりとかひたすら走り続けてる夢だったりとか、そういううなされる感じのばっかりで。起きた時すごく疲れてるんだ」
「…ぶちょう…」
「でも今日は起きた時すっごく悲しくって。空っぽになったような気がして、いてもたってもいられなくなって…。今お前に触れて自分でもびっくりするくらい安心した」
たかが夢のためにお前を突然呼び出してごめんな。
力なくへらっと笑う幸村を尻目に、赤也は言葉を失う。止めようにも止まらない、赤くなる顔も自覚していたし、なにより感動して泣きそうだった。
そんな、この人が気づいていないだけでものすごい告白じゃないか。
幸村を見れば何事もなかったかのように紅茶を再び飲んでいる。外の景色を見つめては時折あの犬がカワイイだとか、でもウチの犬にはかなわないだとか口にしているけれど、正直申し訳ない話、そんなの聞いてるどころじゃなかった。
テニスができなくなる。走り続けて不安だらけ。そんな夢より何より、自分が死んだ夢一つでここまで動揺してくれるこの人が、いとしくてかわいくてしかたない。
うぬぼれていいんだろうか。調子に乗ってもいいんだろうか。
これまで目の前の人は雲の上の人で、想っても想っても届かないと思っていた、大好きな人だった。だけど、可能性は、ゼロじゃない。ゼロじゃないんだ。
「…何ニヤけてんの」
「や、ちょっと、部長の愛に感動しちゃって」
「ふーん? じゃあ愛情たっぷりな部長から、明日の朝練特別メニューを進呈しようか」
「えぇ!? ちょ、なんでッスか!」
「だってお前、絶対俺のこと馬鹿にしてる」
「してないっスよ!」
「だめ。騙されない。もう決めた。蓮二にメール打っちゃうから」
「鬼!」
自分たちがいま喫茶店にいることも忘れていつものようにじゃれついて、だけど赤也は結構本気で焦ったりして。ぶっきらぼうな幸村の態度が、実は照れ隠しだとわかるようになるのはまだずっと先の話だけれど、一歩進む勇気ができたのは確かだった。
Fin.